少年は、夢を見た。
夢の中、世界には晴れることの無い無限の暗闇が広がっている。
呼吸に闇が入り込むようなその濃密な黒。
形有るものが姿を失うその世界でしかし
少年は奇妙な安堵感を覚える。
自分は
眼に見える眩い偽りの光の世界ではなく
何も見えない、
自分を覆ってくれる優しい暗闇の作る本当の世界に
居るのだ、と。
暗い世界の住人の思考である。
その安らかな暗闇の中、彼は、いつしか影法師が自分と対峙して一つ立っているのを認める。
見えはしない。しかし、感じる。
その、影法師の形は、眼に見えない世界でしかし
少年の視覚にうっすらと、徐々に輪郭を見せ始める。
影法師の高くない身長は、細めの体型と合わせて
小柄な全身像を作り出し、
詰襟の、学園制服を纏った少年の立ち姿で有るように見えた。
大きな眼に琥珀を思わせる瞳と濃い目のブラウンの髪を持つ影は、
──少年自身の姿だった。
「やぁ」
何もない暗闇の中で、声を発した自分自身の姿だけはいつの間にかやけにはっきりと見えるようになっている。
「君は…?」
少年は、向かい合った自分自身に問うた。
「見て判ると思うが、俺は、君だ。ザノン・シール」
「ちぇッ、またか。また、何か言いに来たのかい?」
【ザノン】らしくない態度で、露骨に彼は彼の影を嫌う。
「君が思っていることだろう?そんなに邪険にするなよ」
影法師のザノンは、やはり、【ザノン】らしくない
邪悪の匂いをまとう笑いでニタリと唇の端を持ち上げると、
ザノンの眼の奥を覗き込む。
「僕は、僕の選んだ道を行く。邪魔をしてくれるな」
覗きこまれたザノンは、
ドンと影法師の肩を掌で突いて接近を拒絶すると間合いを取る。
「エクスみたいなことを言うんだな」
影法師は、その、伸びたザノンの右腕を掴むと、
構わずにグイと踏み出して右手の手袋、人差し指の先で空中に小さく
罰の字を描いてみせる。
「あの人は、グレンさんと並んで、僕の超えるべき道標だ」
その、姿勢に顕れた追及に
ザノンは不吉なものを感じ
胸をざわめかせながら、しかし、それでも、真っ直ぐに答える。
「そお。だがね、君は、あいつのいる方向には進めないよ」
「何故」
「君は、エクスのように自分の道のために家族を殺せるか?
あいつのように、できないだろう」
「…生き方を同じにすることはできないし、その必要は無い。
けれど、あの人の選択の真意を知る意味はある。」
「エクスは、ルサンチマンだよ」
突拍子の無い言葉だ。
しかし。その言葉にザノンは何かの真実の一端らしき
不吉な説得力の欠片を感じ取り、
「…何を言っているんだ」
と聴き返す。
「後ろを見ろ」
背後を振り返ったザノンは、
白いブラウスに素朴な緑のロングスカートを履いた赤い靴の、
十歳かそこらの可愛らしい少女が、手を後ろに回して、にこりと笑ったのを見た。
明るい茶色い髪と、愛らしい大きな瞳の少女は、小さな唇の端を持ち上げて、
もう一度笑うとお兄様、とザノンを呼んだ。
ザノンは、少女に向き直る。そして
少女の身体が、前触れ無くばらりと崩れて、ドス黒い血の海に沈んだ。
血の海に沈んだ死体は、血を流しきったのか、血で汚れていない部分は
命を感じさせない、陶器のような白さがあった。
胴体は捩れて、膝を上向きにしているのに、上体はうつ伏せになっている
脇に転がった蛇腹の様にぎざぎざのシルエットの細長いものは、骨を砕かれた上にちぎれとんだ右腕だ。
捩れて裂けた腹からは腸が引きずり出されて、纏った血で、暗闇の床を汚しながら
視界の外まで伸びている。
頭を真っ二つに割られて、
割られて歪んだ頭部の砕けた頭蓋骨からは、
グズグズに崩れたピンク色の脳漿がだらりとのぞき、
なにか粘り気のあるものを零した跡のように、一面に飛散している。
綺麗なブラウンの髪の毛が、こびりついた脳漿と血で汚れていた。
それは、一年と少し前にザノンが眼にした妹の死の光景だった。
眼を背けようとしたザノンに、ザノンの声で、妹の死体が問う。
「もう一度聞くぞ。ルサンチマンはこんな風に、
人を殺すんだろう?じゃあ、君もこんな風に家族を殺せるかい?
エクスは、家族を見殺しにしたぞ。惨い死に様で。
だったら、エクスはルサンチマンと同じだろう?」
「僕は…エクスさんも…違う。僕達は、人間として、生きているんだ」
「ああ、そう。
その根拠ってなに?
それにさ。他人なら、殺しても良いワケ?
人を、殺しに行くんだってな?
モルレドウ領まで、戦争しにいくんだろう?」
「…そのつもりだよ」
「君も、ルサンチマンか。ならエクスと同じだ」
「違う。僕らは、人間だ」
「だから、根拠は何?殺される人からしたら、
人間に殺されても、ルサンチマンに殺されても一緒なんじゃないの?」
「僕らは、その答えを探している。いつも」
「へぇーッ──…それさぁ、いつまでにその答えを出すの?
一生、答えなんかださないで誤魔化すの?」
「命を…繋げる…」
「なに?」
「僕は…エクスさんが言った様に、
ひとが、優しい思い出を未来に作るために、正しいと思った道を、進む。
その為に、世界の悲しみを少なくする。
──誰かに、従っているから戦っているんじゃない。
僕に必要な道程であり、道は、戦うための武器だから
──僕は、そこを通る!
世界が泣かないように!
そうすれば、人の間に伝染する悲しみで、
僕は、泣かずに済む!
【いつか】に近付ける!それは、僕のための道だ!」
「ハン」
声と共に、ザノンの眼前から、死体が消え失せる。
「せいぜい、目の前の偽善に酔っているがいいや。頃合を見計らって、また来るよ」
ザノンは、暗闇の中を見回す。対峙していた彼自身の姿も、消えてしまっていた。
見渡す限り、暗闇が続いている。
「そうだ。いつでも、いつも──彼は──
僕は、挑んでくる。挑んで来い。
僕自身を克服しなければ、僕は、何にもなれない」
その夜のザノンの夢は、そこで終わった。