寂しい、と感じるときに
寂しくなんかないよ、と言ってくれるのは
ずっと恋人なんだと思ってた。
苦しい、と感じるときに
苦しくなんかないよ、と言ってくれるのは
ずっと勉強なんだと思ってた。
悲しい、と感じるときに
悲しくなんかないよ、と言ってくれるのは
ずっと家族なんだと思ってた。
楽しい、と感じるときに
楽しくなんかないよ、と言ってくれるのは
ずっと思い出なんだと思ってた。
嬉しい、と感じるときに
嬉しくなんかないよ、と言ってしまうのは
ずっと僕の癖だと思ってた。
思ってたことはたくさんあって、それをそうでしょ?って聞くたびに
それはこうだよ!こうかもしれない?って返ってくるネットに吃驚した。
もう話を聞いてくれないかもしれないような奇天烈なことを言っても
あーだこーだ言って来る輩がいたり、逆にずっと無言でも通ってくれたり
気がつけばそこにはいろんな表現があって、でもツール次第では
知ることも、感じることもできないようなものもあって。
逆に考え過ぎて勘違いしてしまうようなことまで起こったりするけれど
考え過ぎている人を見ると仲間だなーって思って落ち着いたりする。
いや、きっとみんないろんなことを考えているんだけれど
それがどう表現されるかが分かる人と分からない人の差があるだけで
やっぱり僕は寂しいと思って泣いたりもするけれど
それに見合うだけの夢を見させてもらっているし
重い病気にかかった恋人を持つよりは希望的観測ができるわけで。
あぁ、でもやっぱり泣きたいときもあるんだよ。
そんなとき、僕は自分が素直になっている状態であると知る。
いつも日記で何かを綴っている時間の中でも特に純粋である気がする。
涙を見せる相手がいるときは
涙を隠すことを覚えない方がいい。
話が出来る相手がいるときは
話さないことを覚えない方がいい。
どこにも誰も相手が見つからないときは
自分と話すために想いを綴ればいい。
今は孤独だが、一人で生きてきたわけではないことを知る。
お前に与えられた言葉たちに、今一度、問いかけよう。
僕は何だ。
私は何者だ。
あなたの何だ。
あの人の何者だ。
そして、これからはどうあるべきか。
眠りに就く前に考えるのだ。
お休みのキスがしたくて泣いて
赤ん坊のように無心になって
おやすみなさい。そして、おはよう!
僕の素直は、夢を見るために必要なのだ。
生きるとか死ぬとかは関係ない。
きっと誰かを愛する資格なんて持てなくても
困って悩んで眠くなって忘れてしまって
次の日は少し疲れた顔になって
でもちょっと無理して笑って
何かいいことを見つけようとして
ちょっとしたことですごく幸せな気分になって
それが不幸か幸せかは分からないけれど
そうせずにはいられなくなってしまったのだから
思いついたままのメロディを歌うように
想いを溢し続けるんだ。
何かの為になるなんて
報いを考えるよりも先に行動するには
きっといくつかの理由が必要だと思ってた。
でもそれは間違っていて
理由を持たないことなんだなって知った日から
何でも自分でやりたくなった。
君に会えたら、何を話そう。
どこから話したらいいのかな。
恥ずかしくて言葉に出来ないとき
きっと僕は絵を描くと思う。
時間稼ぎに過ぎないんだ。
考えない為の、時間稼ぎに過ぎないんだ。
童貞はずっと思春期なんだ。
馬鹿にされるけれど可愛くて仕方ない。
変な子でごめんなさい。
常識が無くてごめんなさい。
格好つかなくてごめんなさい。
ひきこもりでごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい。
まぁ、何一つ悪いとは思ってないんだが
ごめんなさい、で気が済むなら、ごめんなさい。
誰かの役に立たなくてごめんなさい。
私が死んでも、変わりはいるもの。
なんて言うことを許されない人間になりたいなぁ。
しかし、この大量の赤い羽。どうしてくれようか…。