世の中に対して納得できないことはたくさんある。
とかく、当事者だけを助ける支援とかは納得できない。
命が大切!心臓移植を助けてください!とかもそう。
海外の手術は保証金として大量のお金は必要だけれど
その後、お金が帰ってきてからのことは絶対に語ってもらえない。
別に募金を偽善だとは思わないし、ツイッター募金とかも気まぐれで
私もやったりするけれど、その中では1円だろうが1000円関係無い。
というか、どんなに思いを込めたとしても全体に対しての何割としか
伝わらない。伝えられないのだ。
だから、もしその点に対して正義を行使したいと願うなら
関連企業の株でも買って開発を促す方がよっぽど現実的というか
計画的で、建設的。真っ当な発想だと思う。
社会責任に対してプレッシャーを与えることで、耐えられない人間から
お金を搾取しているような図式をどうしても感じてしまうのだ。
どんな訴えもそうだ。仮に戦争反対を訴える人がいるのなら
彼らはそんな訴えを起こすだけで満足しては行けないと思うし
よほどの指導者がいない限りは、デモとテロが同化してしまって
結局は口だけで終わったと風化してしまっては意味が無い。
社会の中で、確実に存在し続けるということ。
それはつまり、いつの時代も教育の中に存在しなければいけない。
あるいは経済活動として、一国の方向性に変える必要があるのだ。
とはいえ、一度、形を持ってしまうとそれを保つためのコストも
それを悪意の下で利用されるリスクも考えなければいけない。
原点からかけ離れて解釈してはいけないということだ。
それはいつか時代遅れになることも知っておかなければならない。
神様に頼ってきた世紀から、経済活動に依存した世紀を迎えたのは
神様が経済活動を重視した上で成り立っていたからだ。
では次に作る社会はどうあるべきか。
それは経済活動の根本にあるものでなければ衰退するだろう。
そうして物事が充足していく中で、物語は中心へと近づいていく。
私たちはどうして働くのか。
何がしたくて、何となくでも生きているのだろうか。
何を認めて、何を許せずに淘汰してきたのだろうか。
もし、あらゆる人間が勉強に没頭できる「教育国家」を実現すれば
その国の技術は確実に群を抜き、技術革新で経済に貢献できる。
技術面ばかりでは無い。精神的な活動も勉学によって発展する。
だから日本の文学から始まっている変態、オタク文化の成長は
私にとってはとても頼もしい、健全な成長であると感じる。
常日頃考える悩み、分からないことについて答えを出す為には
その答えがいくつもあることと、その過程が無限にあるということを
出来るだけ早く子供に教えてあげるべきなのだ。
そして、その最先端のフィールドでは大人も子供も関係ない。
誰も知らないことだけしか存在しない世界が広がっているということ。
私たちが無能なわけではなくて
君達、私達に未来があるから
無限大の知識が必要なのだということ
こんにちわ!いとまのこです!
あらゆる疑問を明確にするには、理解する為の知識も必要だが
それ以上に、経験して感覚を培うことも必要だと思う。
あぁ、これはアレの心理と似ているね。とか。