「人格の完成」というワードについて、考える機会があって
じゃぁ、人格って何?完成って何?って議論をしていた。
丁度、極限の話を勉強していたばかりで
0.9999…=1は本当か?って話をしていて
その計算式は
x=0.999999999・・・・とします。
10x=9.999999999・・・・
-) x=0.999999999・・・・
-------------------------
9x=9
x=1
というもので。まぁ、詳しい話は調べればいいけれど
つまりは、定義しにくいものの完成というのは
限りなく、目標に近づいている状態で
『完成とは何か?と問い続ける状態』
であると私は考えた。
私は以前、面接で
感覚とは
ソレが何かの理解できなくても、とりあえず受け入れて
ソレがどういうものかを考えることができるように
ソレを使えるようにすること
というように例えてみた。伝わったかどうかは定かではないけれど
私の中ではきっと、それが極限という概念の基点なのだと感じた。
完成とは、自己満足の境界線というだけで
そこに誰もが納得しうる答えがないことは分かっている。
そういう『感覚』を持ち得なければ、何となく感じなければ
受け入れることが出来なければ、『感性』を養うことは難しい。
x=0.999999999・・・・とします。
という定義について、疑問を持つことも楽しみの一つではあるが
それを目的としない限りは使っていくしかないのだ。
少なくとも、子供の間はソレで良いと思う。
勉強とはつまり、何かを使うために学ぶことで
納得できないことがあれば、その先は自分でやればいい。
その先に、納得できない先にしか、やりたいことは見つからない。
だから、人によってやりたいことは変わってくる。
世の中には矛盾も不条理もたくさんあって、ソレと同じ数だけの
ギモンを覚えた感性が、感性を持つ人間がいていいのだ。
『答えなんて無い』 ことについては
『答えを求め続ける』 ことでしか
『答え』 に辿りつく術はない
彼は彼女に、恋をして
あなたが好きです。と、告白することで
恋に結果を出さねば、答えは無いのだ。
絵を描くのも同じ。
音楽を作るのも同じ。
点と線が、音と流れが
愛の告白なのだ。
考えることが無駄なわけではなく
楽しいから考えるのだ。
そうして求め続けることで、完成するのだ。
異論は認める!
おはようございます!!
結局、GW遊ばなかったよね!!
一昨日の夜は学校の友達と徹夜だったけれど!
今日と明日、何しよう(*´ω`*)