ちぃネーム |
kinshisho |
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タイトル | 巨大豪華客船 浅間丸 |
説明文 | 1929年6月2日、当時としては空前絶後の巨大豪華客船が日本皇国にて就航した。 その名は『浅間丸』という。 就航記念セレモニーには1910年に就航し、以降18年に渡って太平洋横断航路で活躍した初代浅間丸も出席するなか盛大に行われた。これにより初代浅間丸は太平洋航路から引退し、その後はオーストラリア航路やインド洋航路などで余生を送り1938年に引退、現在は横浜港に係留されている。 日本郵船所属、全長370m、幅45m、12万5000総トンは当時世界最大で、近年になってメガシップが登場するまでこの記録が破られることはなかった。というのも当時の欧米諸国では理論上これだけの巨大船は建造できないとされ(日本で開発されたハイテンション鋼の存在はまだ知られてなかった)、8万トンが限界とされていたためである。 しかし、浅間丸はその常識を覆し、処女航海でサンフランシスコに入港したときにはその巨大さに誰もが目を瞠った。 それを可能にしたのは新開発のハイテンション鋼とスーパーハイテンション鋼にある。当時はリベットが主流の中にあって巨大船としては前例のない全電気溶接、そしてブロック工法であった。また、強度に影響がなく錆やすい場所などにはアルミ合金が積極的に使われている。特に潮風で錆びやすい手すりは全てアルミ合金製だ。 そして機関にはインタークーラー付排気タービン過給機式ディーゼルエンジンを採用し、更にエンジンで発電機を回してモーターによってスクリューを駆動する方式で、これだと減速機が不要なのとエンジン回転数を常に一定にできるので燃費、耐久性、効率向上への貢献度は大であった。出力は31万5000馬力にも達する。 最高速度は実に36ノットに達するが、それを可能にしたのは新開発のバルバス・バウ、スクリュー・ダクト、可変ピッチ式二重反転スクリューであった。 これまでならこれほどの巨大船だとスクリューは4軸が常識だった。しかし、それでは効率が悪い。そこでスクリューを可変ピッチとし、更に二重反転式とすることで二軸にまで減らし効率を高めることに成功した。本来なら一軸のほうが最も効率がいいのだが、外洋での万が一の故障などを鑑み二軸で妥協している。 また、バルバス・バウとスクリュー・ダクトは造波抵抗を減らし同じ出力で20%の速力向上と10%の燃費向上を達成した。 加えて可変ピッチ式はプロペラの向きを変えればいいのでこれまでの減速機のほか逆転機も不要である。 これが巨大船である浅間丸の快速の秘密であった。 尚、ディーゼルエンジンは蒸気タービンに比べ低燃費でかつ出力も高いのだが振動が大きいのが難点であり、このためマウント部にダンパーを設けたり、またエンジンの2倍の回転数で逆回転することで振動を打ち消すバランサーシャフトを設けたり(これによって出力が若干犠牲になった)、機関室を防音防振材で被ったりとなかなか苦労した点があったようだ。 二代目浅間丸級は三本煙突だが、そのうち三本目は過給機がフルに作動したときのバイパス用で、また機関室の熱気抜きを兼ねている。 ネームドシップである浅間丸に続き1930年には姉妹船の秩父丸、更に1931年には鎌倉丸が就航した。 通常、客室の等級は一等から三等まであるのが普通だが、浅間丸は二等までしかなく、専用プロムナードデッキを設けた更に豪華な特別船室が10室設けられた。 このことからも浅間丸の豪華さが伺える。他の二隻は通常どおり三等まであり特別船室はない。他の二隻はまた、三等がある関係上乗客が増えるので諸設備が増加している関係で排水量が2000トンほど増加している。 外見上では浅間丸のみ喫水線下が青になっており、他の二隻は赤である。設備にもそれぞれ違いがあり、浅間丸には熱帯植物を中心にした植物園、秩父丸にはプラネタリウム、鎌倉丸には世界で唯一の海上寿司店(有償利用で要予約)がある。 日本の船らしく和室や茶室が設けられているほか、和風の装飾を当時流行のアールデコ様式にアレンジした和洋折衷の内装が特徴的だった。内装には世界中から取り寄せた50種類以上の木材が難燃処理を施した上で使われ、また西陣織や加賀友禅などの日本古来の伝統工芸が随所に取り入れられ、全国から宮大工や人間国宝を始め一級の職人が集められ腕を振るった。 漆塗りや螺鈿細工など日本の伝統工芸を巧妙に採り入れた宮殿様式の内装は世界からも絶賛された。 巨大船ということもあり内部には余裕があるため外洋客船には欠かせない設備は一通り標準で揃い、また船内病院には手術室や薬局も完備され動物病院や霊安室もあった。尤も、乗客よりも乗組員の利用が多かったようであるが。 二層吹き抜けになっている一等ダイニングルームは天井までの高さが7mもあり船上食堂としては世界最大の大きさで、700名を収容できた。 一等ダイニングルームの下にある二等ダイニングルームはやや狭くなるが、前後に分かれそれぞれ内装に趣向が凝らされ、前部が翠の間、後部が緋の間と呼ばれている。二等ダイニングルームも当時の豪華客船の一等ダイニングルームに劣らぬ豪華さを誇った。二等ダイニングルームは合計で1200名を収容できた。 特別船室の上に位置しているリッツ・レストランは更に豪華で、この浅間丸で最も豪華な部屋と呼ばれ、300名を収容可能で予約制かつ利用には追加料金が必要であった。こちらでは一等よりも更に貴重な食材を用いた豪華なメニューが用意され、また全ての食事をここで済ませた者は後で払い戻しの請求ができる。尚、特別船室の乗客は無償かつ予約なしで利用可能。 また世界で初めて空調を完備し、海水蒸留装置と逆浸透膜の採用によってこれまで海水風呂が常識だったのが真水風呂に入れるようになり当時の豪華客船と比べてもその快適さは群を抜いていた。 処女航海で浅間丸は平均速度で史上初めて30ノットどころか35ノットの壁を破り見事レッドリボン賞を獲得。因みにレッドリボン賞とは大西洋で最速の船に贈られるブルーリボン賞に対抗して制定されたもので、太平洋を最速で横断した船に贈られる。 太平洋は大西洋と比べても波が荒く、距離も長いので条件的にも厳しくその意味でレッドリボン賞はブルーリボン賞と比べてもその価値に於いて何ら遜色はないだろう。 レッドリボン賞は1951年まで実に21年間破られなかった。そして浅間丸はディーゼル機関を搭載した船舶による初の受賞であり、これまで主流だった蒸気タービンからの世代交代を印象付けた。 更に浅間丸は就航の翌年世界一周の旅に出発し、その際ブルーリボン賞にも挑戦、平均速度34ノットで見事ブルーリボン賞をも獲得した。 このため浅間丸は歴史上唯一のダブルタイトル船として名を残す。 これまで無骨なイメージのあった日本船のイメージを覆す流麗なシルエットと数々の最先端技術、その突出した性能とブルー、レッドの両リボンを獲得した実績により伝説となり、第二次世界大戦には兵員輸送船や病院船として従事、戦火をも無事潜り抜け再び客船として復帰し最終的に引退したのは何と1985年のこと。その間に太平洋を2000回余りに渡って横断し、大西洋を10回、世界一周も12回行っている。 戦後は航空機が幅を利かせ客船は旅客需要を奪われ一隻また一隻と姿を消す中、浅間丸級は例外的に人気が衰えず、その後も世界中の船客を乗せた。やはり、数々の伝説に彩られた客船であることが作用していたのかもしれない。 そんな浅間丸級は呉海軍工廠にて建造された。というのも当時これだけの巨大船を建造できる民間ドックがなく、加えて当時は軍縮条約の関係上海軍休日と呼ばれ軍艦の建造が極端に減り、浅間丸の建造は海軍にとっても数々の新技術を試す絶好の機会であった。 折りしも建造当時世界的な不況が近づいている中、浅間丸は財政支出名目の一つに入り政府が建造に補助金を出した。これにより乗数効果もあって日本皇国は僅かな影響のみですぐさま不況を脱出することに成功している。 浅間丸は三重船底、二重船殻、最上甲板まで延びた23の水密隔壁により24区画に分けられ非常に沈みにくい構造となっており、その構造は現代の視点から見ても遜色ない。 救命ボートは200人乗りで、標準定員は180人とされ、片舷だけで全員を収容可能であった。その上動力式なのである程度の漂流にも耐えられるのと、いざというときにオールを使っての航行も可能。接岸できない港にて乗員乗客の送迎にも使われる。 他にも折畳式ボートを片舷につき10隻用意、こちらは50人乗りでオール式だが他の救命ボートに牽引してもらう。 安全対策は徹底しており、内装も難燃処理が施されている。まさに客船の姿をした軍艦といってもいいだろう。 マストにはレーダーや数々のアンテナが装備されているが、見張台も残っているなど当時の船にありがちな過渡的な部分も散見される。 引退後は故郷の呉に係留され、静かな余生を送っている。 イラストは双方のリボンを獲得した誇らしき勇姿である。 特別船室40人、一等650人、二等1150人が乗ることができ(多少の増加にも対応可能)、乗組員は1200人にも上る。 |
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投稿日 | 2011年12月11日 13:02:13 |
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