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いとまのこさんの公開日記

2009年
01月31日
07:13
凄く読み応えの無い駄文なので、暇じゃない人は読まないように!
でもテストに出るかもしれないよね!

あらやしきってことばがあるんだ
 (*´ω‘*) へぇー。へぇー。へぇー。

空の境界がめちゃくちゃ好き!ってわけでもない私なのですが
こういう知識が小出しに含まれてるらへんが見たくなる所以なのですね。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識。
この八つが大乗仏教を支える根本思想。ふむふむ。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識っていう5つが五感なのかな?
意識・末那識・阿頼耶識って何だろう。

とりあえず阿頼耶識ってのは人間存在の根本にある識ってことらしい。

阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%...

"ālaya の語義は、住居・場所の意であって、
その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵しているから「蔵識」と訳される。"

DNA…まで行かないか。本能みたいな感じかな。生物としての目的?というか役割?
寿命と共に引き換えた生殖機能ですね(*´ω‘*)
とりあえずそれくらい深いところに仮定しよう。

じゃぁ、末那識ってなんだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

"第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である。"

”末那識を「意」と訳す。「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから末那と言われる。また、末那識とは末那即識(意それ自体が第七識)のことで、第六意識(意に依る識)と区別する為に、manas マナスのまま音写していう。つまり第六識も「意識」というので、その違いは、意識は意によって生じる識であるから意識という。依主釈。末那識は持業釈である。”

(゚∀゚) …意味分からん。

分からないので、wiki布団の上を駄々こねてごろごろ回ってみた。

無意識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98
"ちなみに、AD4世紀頃現れた仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層意識層を想定した。(八識説)"

どうやら、無意識とも!解釈できることらしい。
もう少し読むと無意識について書いてあった。

"「意識がない 独: unbewusst, bewusstlos, 英: unconscious」とは、
 強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。
 しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、
 「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。

 他方、弱い意味で「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。
 例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、
 音楽の両方が意識される。しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、
 「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。

 音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、
 音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。"

ほほぉ。何か他にもいろいろ書いてあるけれど、ニュアンスは分かってきた。

目的を持って行う習慣と、目的を忘れて行っている習慣って感じかな。
そこに"意図的な命令"が下っているか、が焦点なのかな。

親の用意してくれたご飯を何気なく食べるのと
一人暮らしで食事を考えてご飯を食べるのとでは
同じご飯を食べることに対しても、意識の量が違うって感じですね。

意識の量に明確な線を引いて区別する。って感じか。
電気回路で言えば、コンパレーターみたいな感じですね。(comparative:相対的に)


うーん。まぁ、ニュアンスで捉えると


わざと → 意識                        ~スキップという技を覚えた

なんとなく → 無意識                    ~歩く以外で進みたかった
                                            ||
なんとなくだけど、おぼえてた → 末那識        ~こんなかんじだったっけ?
                                           +
みんな生まれたころからあると思う →  阿頼耶識  ~嬉しい感情を表現したい



意識と阿頼耶識が最初からあって初めて、無意識、末那識に
同じ空間に存在するのはおかしいな。このニュアンスはなんか違う。

改めて末那識をググる。
http://pushup.exblog.jp/8014565/
"末那識(まなしき)は意識であり、常に阿頼耶(あらや)を思っている。
 阿頼耶はいわば経験や記憶が貯蔵されているところで、その人がその人であるための
 大事な倉庫、またはハードディスクである。
 で、末那識は常に阿頼耶を思っているので、自分自身に縛られていく。
 すなわち、人間が我執に捕らわれて、生きとし生けるもの、物の本質を捉えられないで
 誤解や嫌悪に至ってしまうのは、この末那識ゆえである"

うーん。ハードディスク…。ソレはなんか違う気がする。
作中では、みんなが持っているってニュアンスで「人間の真理」みたく聞こえた。でも

"末那識(まなしき)は意識であり、常に阿頼耶(あらや)を思っている"

っていう概念が必要なのは分かった。
wikiにもあったがどうやら分離するものではないらしい。

習慣と本能と言う意味で、末那識、阿頼耶を区別できると思ったが
本能の中に習慣は集約されるとは限らないという持論を
成り立たせるにはどうすればよいか。

どうやら阿頼耶は本能とかそう言う概念とは別な気がする。

阿頼耶という常識の中の持論。それが末那識。つまり、常識があっての持論。
常識の前提を覆す何かに気づけば、それは簡単に崩壊するのかな。

でもそれが常識だと認識するソレは末那識だから
データ自体が阿頼耶。つまり、スカラーのようなものなのか。
んで、末那識が方向を持ったベクトルなのか。

なるほど。だから阿頼耶は住居・場所なのね。



「私はここにいます」 という状態を阿頼耶。

ソレを私だと認識するのが末那識。

五感でそれを確認するのだけれど

確認するかしないかの判断は、意識、無意識に分かれる。




阿頼耶がプログラムで、末那識がプログラムありきのメモリ。
意識がプログラムに基づいてデータを運ぶレジスタで、五感がセンサーなわけですね。
あれ、じゃぁやっぱり阿頼耶って本能じゃないか。

機械的に配置しようと思ったがどうやら無理らしい。
電動マシン、マイコン、プログラム、センサー。くらい漠然としてる。

まぁそんなもんか。人間の苦悩も理解されるのは難しいってことですね。



ここまで読まして置いてそんなオチかよ!って避難は勘弁!!


5:I/Oポート 6:レジスタ 7:データ 8:アドレス
お、こんな感じか。