夢ばかり、阿呆なことばかり語ろうておる若者がもっとおってもよかろーと思うに。さぁ話そう。語ろうぞ!と思う程に、現実的な話ばかりが浮かんできおる。愚痴やら文句やら見栄やら女やら。不幸も幸福もたいそう律義に自慢してる。それらが誰にとってどんな価値があるかなんて関係ない。自分から世界へ表現したということに意義があるのだ。吐き出せるものは吐き出してしまった方が良い。そこで何が解決するわけでなくてもだ。皆がそうして分かち合い、時には意見をぶつけて争うことで成長するのが人間関係、あるいは社会というものなのだろう。
私にとって、そこはただ生きるだけの空間であるか?と言われればそうでもなくて、誰かの為に何かを頑張れるか?と聞かれても誰の為にとは答えられなくて。ただ、どこかで何かを守るために頑張っていることは確か何だが、それはその時々によって方針が変わりやすく頼りにならない感じがする。しかしそれこそが自分の意志、夢、コンセプトの定まりきらない人生そのものだったりもする。私にとって安定とは何か、平和とは何か。それが大人に成りきれないまま彷徨っているんだと思う。
きっとやりたいことや、出来ることを並べて答えが見つかるものでもなくて、どこに、誰に評価されて、どう満足できるか。どう頑張れるか。自分と自分以外の何かを視野に入れながら互いに影響し合って生きていくことをどの規模で考えられるか。友か、恋人か、家族か、社会か、国か、世界か、あるいは歴史か。
もし一番があるとすれば、それは大義を成すことだと思う。
それは別に、誰かの為なんかでもなくて、きっと大したことでも無くて、ただ自分の中に広がった知識や思考の海が広がる世界の中でできることを探す。その自分の世界の中で大義を果たしてこそ、自分の何たるかを知ることが出来る気がしたのだ。私にとって音楽は職になるほどは雄大なシナリオも描けず、研究職になるにはいささか歳を取り過ぎて。さて、残すところは道楽の極みではなかろうかと若者としての最後の勤めを意識しているところである。金も無い。職も危うい。世間は不景気で愚痴は積もる。さて、そこで時間があるというのなら、私は私の義に従うことにしよう。
30となるまで、あと5年である。そこにどんな出会いがあるだろうか。あるいは死んでしまうかもしれない。ただ、早まった決断に悔いるよりは万事において凛とした目で見張るべきである。誰に何と言われようが、私が私であることと、別の私になりたいと見つけたその想いをまっしろな紙に描き、綴るのだ。
その喜びを知った
そしていつか、伝えようとした言葉を
皆が愚痴としてこぼすように
そっとしまった言葉たちを取りだすのだ
思い出を取り戻すのだ
あのとき、あの場所で
伝えきれなかった想いを
叶えるために
叶えるために
おやすみなさい。そして、おはよう!!
ワンピースの映画みたいのー!!
ところで、鳥人見てないからよく分かりません。あうち!