「じゃー、おれもう帰るけど引っ越して一週間もたつんだから、いーかげんあのダンボールの荷物片付けなよ?」
おれの言葉に、横分けな寝癖がついたしょーちゃんは露骨に嫌な顔をした。
しょーちゃんの部屋で遅くまで飲んだおれは、昨日そのままここに泊まっていた。
最初からそういう話ではあったものの、うちではタマがきっと寂しがっているだろう。
お昼には間に合うように帰ってあげたい。
おれが帰るための身支度をするあいだ、しょーちゃんは寝転がったままそれを眺めていた。
ヒゲも剃らなきゃ顔も洗わない。
今日も外に出る気はないのだろう。
面倒くさがりなしょーちゃんは、だから引越しの荷物もほどかない。
必要なものだけを、ダンボールから直接出して使っている。
玄関のドアを押さえたまま、しょーちゃんがふてくされ気味の声を出す。
「気が向いたらな。」
おれはすかさずツッコむ。
「すぐやりなよ。だから手伝うって言ったのに・・・。
そういえば、隣近所に挨拶はすませた?」
「ああ、隣の女とはおととい顔を合わせたな。」
答えをきいたおれは、がくりと肩を落とした。
「じゃ、ちゃんとした挨拶はしてないんじゃん・・・。
今日このあとにでもいいから、粗品のひとつも持って
最低限両隣だけでも行って来い!」
「んなことしなくたって追い出されやしねーだろ。
ほっとけ。」
しょーちゃんの顔が不機嫌にゆがみ、おれはちょっと意見がいいづらくなる。
「でも、失礼だし。」
弱気になってしまったが、親友相手にビビってどうする、と思い直す。
「この先、何かあったらお世話になるかもしれないだろ?」
言いたいことはちゃんと言わなきゃ。
スジが通ってればしょーちゃんは絶対わかってくれるんだから。
「なんねーよ。
・・・いや、あのオッパイには世話になっても」
しょーちゃんは無精ヒゲの生えたアゴを手でなぞり、考える顔をした。
「隣の人を何だと思ってるんだよ・・・。」
おれは呆れを隠さずつぶやいた。
しょーちゃんはケロリと答える。
「いいオッパイ、だな。」
「おれは犯罪者の友達なんてゴメンだからな。
じゃあね。」
忠告して背を向ける。
もちろんそんな心配はないと知っているけど。
後ろで、無気力な
「おー。」
という声がして、ドアが閉まる。
おれは、しょーちゃんらしさに呆れて笑った。
大人のくせに、と。
だいたい、今回の引越しの理由だって大人らしくない。
いつまでもちゃんとした作家になれない弟に、業を煮やしたキリコさんとケンカして家を出たという。
働いていないわけではないから収入はちゃんとあるのだが、姉からすると勤め人でもなく、いつまでたっても芽が出ない怪しい仕事をしているように見えて心配なのだろう。
それでも、しょーちゃんはハードボイルド作家になるという夢を追い続け、書き続けている。
頑ななその姿勢は、よく言えば少年のようで、悪く言えば子供っぽい。
おれ個人としては、食べていけるならそれでいいと思う。
自分の人生なのだから。
けど、キリコさんは違う。
「ヨシアキくんを見てみな!」
大人になれ、と よりによっておれを引き合いに出したこともある。
子供のころは、逆におれが大人っぽいしょーちゃんに憧れていたのに。
とにかくそうして、しょーちゃんは家を出てこのHBH302にやってきた。
家賃と立地で決めてしまってから、ハッピーベルハイツという、ちょっと可愛らしい名前に後悔を覚えたらしい。
だからしょーちゃんはココを、HBHという略称でしか呼ばないし、おれにもそう釘をさしてきた。
髪はボサボサ伸ばしっぱなし、服もテキトーなのを着てるくせに、変なところで格好をつけたがる。
おれはしょーちゃんの部屋を振り返った。
隣、303のドアも目に入る。
優しい人だといいけど。
少しだけ、心配になる。
と同時に、おれは自分の隣人を思い出した。
603号室の住人、織田信濃(しなの)さん。
凛とした美人で、その上優しい。
引越しの挨拶に行ったおれに、
「何でもきいてくださいね。」
と笑ってくれた顔が、二年たった今でも忘れられない。
恥ずかしながら、あの時からおれは彼女に恋をしている。
もう三十なんだから、いいかげん家を出て嫁探しでもしろ。
そういっておれを追い出した父さんに感謝したいくらいだ。
おかげで織田さん・・・信濃さんとお隣さんになれたのだから。
とはいえ、おれと信濃さんには今のところそれ以上の接点はない。
彼女は今24歳でぜんぜん年下だし、美人で、おれはといえば、何のとりえもないただの地味な・・・おじさんだ。
ついでに、狐憑き。
ため息がでる。
タマは可愛いけれど、どうにも嫉妬深くておれが彼女を作るのをよく思ってくれない。
多少言い方は悪いが、ちょっとした障害だ。
もちろん、一番悪いのはお世辞にもカッコいいとは言えない上に、すっかりオヤジになっちゃったおれ自身なのだけれど。
などと。
楽しくない考えにおちいっているうちに、どうやら家についてしまった。
隣は、留守。
休日だし、信濃さんもどこかへ出かけているのだろう。
偶然見かけて、時々少し会話するのをささやかな楽しみにしているおれは、ほんの少しだけがっかりした。
隣に住んでるからって、そもそも会える日の方が少ないのに、今日だって信濃さんは彼氏と会ってるかもしれないのに、元々期待できる余地なんてないのに、落ち気味な気分のせいか、おれはフラれたような気になって、自宅のドアを開けた。
「ただいま、タマ。」
タマのことは、いまだにおれとしょーちゃん達以外には秘密だ。
遊びに行くときも、この辺で人間の姿にはならないよう、よく言ってある。
いつまでも大きくならない子供なんて、怪しすぎるからだ。
なので、ここはおれ一人で暮らしていることになっているが、今は周りに人が居ない。
普段ならドアをしめてからかける声を、今日は寂しくて早めに出してしまった。
返事がなかった。
「タマ?帰ってきたよー、タマー?」
呼びながら中に入っていく。
ダイニングテーブルに、メモをみつけた。
いびつな、カタカナ。
「オデカケ スル」
遊びに出たようだ。
おれは、タマにまでフラれた気がした。
なんだか急に、ものすごく寂しくなってきた。
じわり、と この程度のことで自分が涙目になったのがわかる。
「こういうとこ、直さなきゃな。
しょーちゃんの心配する立場じゃないや。」
つぶやいた独り言で、寂しさは倍にふくれあがった。